父の話~美容院~
父の人生において衝撃的だった出来事をあげるとすれば
美容院は間違いなくそのうちの一つに入るだろうと思います。
初めて美容院に足を踏み入れたのは今から7年ほど前。
長年通っていた床屋さんが廃業するので、
次に通う所を探していたところ
隣の美容院の方が声をかけてくれたのがはじまりでした。
「気持ちいいなぁ。お前あれ、ずっとやってもらっていたのか」
「あれ?」
あれとはシャンプーのこと。
寝ながら髪の毛を洗ってもらう行為が信じられなかったようです。
(それまでは前かがみになって髪の毛を洗ってもらっていたそうです。)
それ以来すっかり気に入って髪をカットするときはいつも美容院。
全国的に大きい美容院なので、
なかなか予約が取れないのですが、
「会長、そろそろいかがですか」と
いつも気にかけていただいてました。
~.~..~..~..~..~..~..~
父がなくなった翌日のこと。
いつも担当してくれている方から連絡がきたのは
午後でした。
「無理を承知でお願いしたいんだけど、
会長の髪の毛、カットさせてもらえる?」
「?」
「ずっと気になっていたんだけど、バタバタしていて
なかなかタイミングがあわなくて」
実は前日に次回カット日の予約カードを渡したのだそうです。
なくなった方のカットはやったことないんだけど、
身ぎれいににして送ってあげたい。
マユミさんのプロ意識と私たちのためにこんな大胆な提案をしてくれたことにウルっとしてしまいました。
~.~..~..~..~..~..~..~
お通夜は明日。
葬儀場の安置室にいるのは今日まで。
葬儀屋さんにこの話をしたら快く受け入れてくださりました。
お仕事を終えて道具フルセット抱えて駆けつけてくれたマユミさん。
お線香をあげてもらい
重くなった父の頭を持ち上げて持参したケープを枕元にしいた恰好が
やけにシュールで自然と泣きながら笑ってしまいました。
「会長、私の負担にならないように、いつもカットするときは私の都合に合わせてくれたの。
今日も面会時間までに来なくちゃならないということだったらあきらめるか、
仕事はキャンセルはできないから、やっぱり無理かもなって。
会長だったらこっちはいいから仕事優先しなさいって言うはずだから。
でもこうやって最後まで負担をかけさせないように物事が運んでいくのはなんだかやっぱり会長らしいね」
無造作に伸びた髪の毛が
彼女の手で手際よくカットされ
きれいに切りそろえられていきます。
父の最後の旅路に備えて
整った髪型で見送ることができ
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
そのあと、ちらかった髪の毛を泣きながら笑って片づけたのですが、
そうか、父はシャンプーじゃなくて彼女のやさしさ、温かさ、思いやりにあふれたこの雰囲気がよかったのだと。
1年たった今、改めて素敵な人たちに囲まれた人生を送っていたのだなぁと思いました。
父の話
珈琲を淹れるのはいつも父でした。
やかんにお湯を沸かしている間に冷凍庫から豆を取り出し、
コーヒーカップを用意して
沸騰したお湯でカップやソーサーを温めて
少しだけ冷めたお湯で注ぐと
ぶわっと膨らんで、部屋中に珈琲の香りが広がります。
「今日はうまい!」と言って人数分のカップに注いでくれる。
父の淹れる珈琲は本当においしいです。
「おいしくしようとか我が入るとだめなんだ。時間に追われてもだめ。
ゆったりとした気分で淹れないと。まあそれが難しいんだけどな。」
そんな父のお気に入りの豆は南千住にある「カフェ・バッハ」のコーヒー。コーヒーももちろんですが、この雰囲気が好きなんだと
コロナになる前まではほぼ毎週通うほど大好きな場所です。
元々は父のすぐ上のお兄さんの紹介から。
なかなか場所を教えてもらえずお兄さんから買って送ってもらっていましたが、
あるとき割高で買っていたことが判明。
「身内でもうけなきゃどこでもうけるんだよ。」がお兄さんの言い分。
この父にして叔父ありのエピソードです。
*・゜゚・*:.。..。.:*・'*:.。. .。.:*・゜゚・*
父の49日が終わって
帰りにバッハに寄りました。
奥さまがお出迎え下さって色々とお話くださいました。
「お父さん、3つの飲み方をされていたんですよ。
いつもの、おまかせ、そしてこれ。」
と右手でコーヒーポットからサーバーにお湯をちょんちょんちょんっと3回淹れる仕草。
「いつもの」は「バッハブレンド」
「おまかせ」は何か他に頼んだ時に合うコーヒー。
スタッフの方が選んでくださいます。
そして最後の3回淹れる仕草は「カフェ・シュバルツァー」
イタリアの豆を一滴ずつ抽出する高濃度のコーヒー。
高濃度なので、炭酸水とお菓子が付いてますが、
苦いという感じではありません。
なにかここぞというとき(展示会に行くときとか決断をしなければいけない時)に頼んでいらっしゃいましたよ。
ただお父さんのことなので、時間がかかるのでお客様が少ないときに頼んで下さっていましたね。
父と「カフェ・バッハ」と私たち家族。
現在進行形でまた一つ繋がりを持つことができました。
今はあっちでおじちゃんとコーヒー談義でもしてるのかな
50年位前の母の話
今も元気な母の話です。
もうお店に出ることはほとんどありませんが、よく昔話をしてくれます。
都会で商売がしたいと20歳の時に茨城県の玉造町から父のところに嫁いできた母。
ところが、降りたった場所は、店のまわりは葦が生え放題、道路は砂利道。
当時の蕨の様子です。
「あれ?玉造とそんなに変わらなくない?」
それでも、自分で商売が出来る喜びで20歳の母は希望を胸に生き生きとお仕事をしていました。
そんなある日のことです。
父が仕入れにいっている間、一人で留守番していると、
足の悪い男性がお店にやってきました。
「これからお通夜があるんだけど、熨斗を忘れちゃって。。。足が悪くてねえ。悪いんだけど香典の熨斗を買ってきてくれるかな」
(「ん?え?」)
しかしそこは母。
「分かったわ。ちょっと待っててね。今買いに行ってくるね。」
文房具屋さんから熨斗を手に帰ってきたら
お店には誰もいません。
さらに、おつりを入れている袋もなくなっていました。
がっかりした母ですが、
父にそのことを話すと、
「あーそうかー。また頑張ればいいよ。」
と、笑っていたとのことでした。(*^^*)
またある日の事です。
万引きを見つけた母は、逃げたお客さんを
「ドロボー!」「ひとごろしー!」と大声で叫んで追いかけたそうですが、
(話しを聞いたら200mぐらい走ってます)
結局捕まらず。冷静になってみるとまわりは葦だらけ。母の叫びを聞いている人は誰もいませんでした。
またある日のこと、
買い物を済ませていざ支払いの時にお財布を忘れたというお客さん。
(「ぜっーーたいだまされないぞ。」)、
一緒に取りに行きましょう。とお客さんの車に同乗して行った先がなんとテレビとかでよく見る反社会的勢力系の事務所。
ここでひるんではいけないと「私も内股にバラの入れ墨してるのよ」と言って、お金はきちんと支払ってもらったそうです。(帰りは徒歩で帰りました。)
現在のお店も小さいですが、当時はもっと小さくて、
しかも若い二人が切り盛りしていて、
きっとはたからみたらおままごとみたいにみえたのでしょう。
お客様に鍛えられたと当時を振り返りながら語っていました。
かなり天然要素がありますが、
負けん気が強くて、人の役に立つことが大好きで、曲がったことが大嫌いな母。
ほとんど車の通らない信号もちゃんと守ります。
そんな母になかなか近づくことは出来ませんが、
こんな時母だったらどうするかなと考えることが多くなりました。私の人生の羅針盤となっています。
⚪後日談⚪
足の悪い香典熨斗男のことですが、それから数年後大阪で捕まりました。
うちの事も覚えていて、盗んだお金はきちんと戻ってきたそうです。(^^)
善光寺
6月に入りました。
梅雨入り間近です!
新緑がまぶしいこの時期はまだ緑の中を歩くと、心地よい風が通り抜けて自然と一体になれる瞬間があります(^0^;)
自然といえば、
先日長野県の善光寺に行ってまいりました。
江戸時代より一生に一度は善光寺参りといってこの日もたくさんの人々がいらっしゃってました。
大変古くて、由緒正しく、そしてとても大きなお寺でした。
おりしもその日は花祭り。
参道から善光寺に向かってたくさんの花が並んでいました。
球根用に刈り取られた赤、白、黄色のチューリップの花びらや杉の葉、ヒノキのチップなどを使って、
路上のキャンパスに大きな絵を描いたり、花ポッドで道路が埋め尽くされていました。
歩く度にお花のいい香りが。
暑い日でしたが、とても心地よく歩くことができました。
そして、長野といえばおいしい食材!
豊かな自然に恵まれた信州ならではの風土が生み出したそば、日本酒など本当に堪能いたしました。
伝統、自然、空気、お食事。
どれをとっても最高!で大変贅沢な時間を過ごすことができました。
どうもありがとうございました。
もうすぐ梅雨入り、そして、暑い夏がやってきます。
日本の四季を彩るこの時期ならではの愉しみを
満喫しにまたどこかにお邪魔したいです
※当店では空調服絶賛発売中でございます!
共働き
夫婦でお店を営業してたので、
共働きでした。
夜遅くまで、
父と母が働いていて、
終わるのが夜の8時。
日中買い物にくるお客さまだけじゃなくて、
メーカーさん、
銀行の営業マン、
仕入れに出掛けたり、
何が売れたか確認して発注したり…。
色々としなければならない事があって、
階段を上がればそこは台所だけれど、
日中に、夕飯の支度をするのは
そこそこ難しかったのだと思う。
しかもお風呂もなかったので、
お風呂やさんにいってから夕飯。
と、なると
開いているのは居酒屋さん。
「北海」「れんこん」
うちの家族の行きつけの居酒屋さん。
豚の角煮がものすごく柔らかくて美味しかった
横にちょこっと付いてるカラシにくっつかないように緊張しながら食べてました。
お風呂上がりにタイミングよければ開いてる団子屋さん。
あんこが苦手なので必ずみたらし団子注文。
このように外食の思い出は
小さい頃の家族との団らんとリンクして
ます。
うちはそういう意味で、
外での食事は垣根が低かったので、
今、共働きで働く身としては
ありがたい感覚です。
手作りの「母の味」を否定するわけでは全くないけど、
今これだけ共働きが増えているのだから、
お母さんがごはんを作る構図が小さい頃から刷り込まれているのはすこしつらいかなと思う。
罪悪感みたいな感じになったりもします。
かなり昔に行った
海外で、
小さい子どもたちを連れたたくさんの家族が屋台でご飯を食べてたり、
ビニール袋に飲み物入れて、
持ち帰ってる所とかみて、
その国にエネルギーを感じたし、
外食が家族に欠かせないもので特別なものではないと思った。
もっと気軽に
どの年代の家族も受け入れてくれるような
食べ物屋さんが増えるといいな。
個室っぽいところで行って食べて終わり。
とかではなく、
お店の方とお話ししたり、
となりの席のファミリーと話したり…
となりの赤ちゃんが泣いたら、
となりの年配のご夫婦が抱っこして
あやしてくれるような
そんな感じの食べ物屋さん。
あの
アジア圏で味わったがちゃがちゃした感じが
なんだかいいなと思うのです。
30年前
1987年頃のことです。
建て替えをすることになりました。
蕨に来て20年、
愛着のあるお店でしたが、
少し大きくするために、
解体して、新しくお店を建て直すことにしました。
「100年持つ店を」
すでに父の中では蕨に腰を落ち着けるつもりだったのでしょう。
7人兄弟の末っ子として、その辺りは自由だったのだと思います。
建築には大体1年から1年半くらいかかると言われていました。
その間は、近くに仮店舗を借りて
営業していました。
1980年後半といえばバブル真っ最中。
ただ当店はあまり
恩恵は受けなかったそうです。
しかし、知り合いの方から、
NTTの株が2つ当選したので、
1つ譲るよと言われて、
1つ受け取ったそうです。
それがあれよあれよという間に
上がって絶妙なタイミングで売ったので、
利益がでました。
そして、
「よし、このお金でアメリカに行こう??!」
「え、アメリカって…
2泊3日とかじゃ行けないんだよ。」
「西海岸から東海岸まで。2週間行こう。」
…。
…やったー!
初めての海外旅行です!
今思うと、
その利益でこれから建てるお店のローンにあててもいいのに、
なんと利益まるまる家族分の2週間の海外旅行✈️費用になったのです。
定休日もない時代です。
商売をしていて、
家族旅行という概念すらなかったのに、
いきなりの海外旅行??!
もちろん、お店はその間休業。
月の半分売上ゼロです。
一緒に行ってくれた取引先の方と
今でも語り草になるくらい、
珍道中でしたが、
あの2週間は紛れもなく、
人生における豊かな財産になりました。
仮店舗&月半分休業。
当然売上は下がりましたが、
あの時の、
何かは失ったけど、
形に見えないそれ以上のものを得る事が出来ました。
父と母の男気の決断に脱帽です。
きっかけ
父が高校卒業後、奉公先に選んだのは
お茶屋さんでした。
しかし、
「入社に及ばす」←要するにクビですね(^^;。
そのあと、親戚の方の紹介で繊維メーカーに就職。
月2回休み。
手取り大体約5000円ほど。
その内の2000円は積金として、
おかみさんが貯金してくれてました。
その頃は神田のバー1回でお給料全部なくなってしまったそうです。
(ちなみに巣鴨のバーは3回もつそうです。)
多い時は10人ほどの社員さんがいて、
畳で眠れず、裁ち台で寝ていた時もあったそう。
一番下っ端だったので、
東京オリンピックの時は、
先輩たちは社内でテレビ観戦。
父は、外回りで配達。
女子バレーボール「東洋の魔女」の優勝は
配達中、竹町の喫茶店でその瞬間を味わう事が出来たそうです。
20歳ころの写真。
奉公先の会社の前で。
ショート丈のジャケットがオシャレ。
開店
開店時の写真が出て来ました!
山積みのGパンには
「ヤンキーGパン」と書かれています。
軍手は洗濯バサミで止められてます。
時代を感じるひとコマです
この時父25歳、母20歳。
若い夫婦が、一国の城としてお店を持つという決意に、当時不安が大きかったのではと思いましたら、
意外にも、
誰にも気がねせず、1からお店を立ち上げたかったとの事。
今でも若い夫婦が二人でお店を出しているのを見ると、(料理屋さんとか)当時の自分たちを思い出して、つい、応援したくなってしまうそうです。
借景
現在でも「日本一小さい作業着屋さん」といわれていますが、
開店当初は更に小さくて、
今の半分、6坪ほどの敷地で営業しておりました。
2階は住まいで、6畳、4.5畳、台所(食事するスペースなし)、トイレ。風呂なしという間取り。
4.5畳の部屋は防寒などの衣類がぎっしり詰まっているので、事実上の生活の場は6畳の部屋のみでした。
この部屋で、ご飯を食べたり、布団を敷いて寝たりしてました。
当時はまだまだ自然豊かな蕨。店の前はアシの群生、夜はウシガエルの合唱、墨田区で育ち、神田で過ごしてきた者には、あまりの環境の違いに夜は眠れなかったといいます。
この頃は、2階の窓から富士山が見えていた様です。
ちょうどこの高さからこの方向に見えていたと思われます。
ご褒美のビール
今でこそ当店の前の道路は
そこそこ車が通る様になりましたが、
50年前にはまだジャリ道で、1日に2.3台通るかどうかという、本当に何もないところでした。
その中で1日の売上が3万円に達したら
アサヒの瓶ビール1本(当時130円ほど)
夕飯につける事が出来たそうです。
出身が墨田区吾妻橋なので本社のあるアサヒビールにこだわってます。
(現在もアサヒビール一筋です)
※まだその頃はスーパードライはなかったそうですが、こんな感じだったのかなぁ。